塚田神社 棟札調査
2025年11月17日実施
塚田神社の棟札調査を行う目的と意義は、地域の歴史と文化の継承、地域資源の価値再確認、そして地域振興の基盤づくりの3点に集約されます。
棟札は、建物の建立・修繕の時期や、その際に尽力した人々の名前などを記した第一級の歴史資料です。
塚田神社は、歴史的価値だけでなく、自然資源と生態系という側面も持っています。
調査を通じて得られた情報は、単なる過去の記録に留まりません。
この調査は、過去を明らかにし、現在を再評価し、未来へつなぐための重要な第一歩となります。
調査の結果:棟札の発見には至りませんでした。
本殿および拝殿において丁寧な調査を実施しましたが、今回の調査では棟札を発見することはできませんでした。しかしながら、この調査を通じて、塚田神社が持つ地域資源としての多面的な価値を再認識する貴重な機会となりました。
2025年11月17日(月)棟札調査の様子
勧請の年月は明らかではないが、所蔵の棟札に天正11年(1583)大壇藤原忠広……大願主鎌田丹後守、云々とあり、飫肥城主島津忠広が、伊東義祐(三位入道)と戦いを繰り返していたころ、島津の支将が再興したものとみられる。
また旧称を早馬大明神といい、地区古老の話によると、当社境内を万山の嶺と称していた。島津の支将、樺山安芸守が榎原村字大窪の男鈴山(標高783㍍)に鎮座する鈴嶽神社に参籠祈願し、名馬「早馬」に乗って塚田村に至る途中病死したので、塚田神社境外に葬った。
この故事にもとづき、ここを早馬崎といい、お宮も早馬大明神と称していた。島津氏が支配していた時代は、樺山安芸守の木像を本殿に安置し、太刀を奉納するなど、神社の造営、維持に当り、伊東氏になってからも神領として田五反五畝余を寄進して来た。
明治4年に塚田神社と名を改め、塚田(上塚田・下塚田)160戸の総氏神として崇敬されている。
出典:「神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト」に記載されている内容をそのまま転載しております。
今回の調査では棟札の発見には至りませんでしたが、塚田神社が持つ多面的な価値を改めて認識することができました。
「塚田ふるさと応援隊」は、これらの地域資源を活用し、観光や教育といった地域振興活動の基盤として、今後も継続的な調査と情報発信を行ってまいります。