神社の風景

地域資源調査報告書

塚田神社 棟札調査

2025年11月17日実施

調査概要

作業実施日時: 2025年11月17日(月)13:30~
作業実施場所: 塚田神社本殿及び拝殿
参加者:
  • 日髙 啓(塚田神社総代長)
  • 河野 茂(建築代表)
  • 日髙新次

調査の目的と意義

塚田神社の棟札調査を行う目的と意義は、地域の歴史と文化の継承地域資源の価値再確認、そして地域振興の基盤づくりの3点に集約されます。

1

地域の歴史と文化の継承

棟札は、建物の建立・修繕の時期や、その際に尽力した人々の名前などを記した第一級の歴史資料です。

目的: 棟札を調査・解読することで、古来より塚田地区の住民を氏子として守ってきた塚田神社の正確な由緒、創建・改築の歴史的経緯、関わった氏子の名前や当時の社会背景を明確に記録し、地域の歴史的アイデンティティを明らかにすること。
意義: 調査結果を後世に伝える資料として整理することで、口伝や曖昧になりがちな塚田地区のルーツを確かなものにし、文化の継続的な継承に貢献します。
2

地域資源の価値再確認と結びつけ

塚田神社は、歴史的価値だけでなく、自然資源と生態系という側面も持っています。

目的: 棟札から得られる神社の歴史的・文化的価値と、境内の飫肥杉(名木)や姫蛍の生息地としての自然環境的な価値を有機的に結びつけ、塚田神社という地域資源の多角的な価値を再確認すること。
意義: 「歴史・文化・自然」が一体となった唯一無二の魅力として再定義することで、地域住民の郷土愛の醸成を促し、外部への強力なアピールポイントを創出します。
3

地域振興の基盤づくり

調査を通じて得られた情報は、単なる過去の記録に留まりません。

目的: 棟札調査の結果を、既知の地域資源(名木、姫蛍)と組み合わせたストーリー性のある情報としてまとめ、地域外への情報発信の核とすること。
意義: 歴史的な「由緒」を裏付けとすることで、観光や教育といった地域振興活動の信頼性と深みが増し、「塚田ふるさと応援隊」の活動の基盤となる確かな情報を地域に提供できます。

この調査は、過去を明らかにし、現在を再評価し、未来へつなぐための重要な第一歩となります。

調査結果

調査の結果:棟札の発見には至りませんでした。

本殿および拝殿において丁寧な調査を実施しましたが、今回の調査では棟札を発見することはできませんでした。しかしながら、この調査を通じて、塚田神社が持つ地域資源としての多面的な価値を再認識する貴重な機会となりました。

調査の様子

塚田神社棟札調査の様子

2025年11月17日(月)棟札調査の様子

調査資料:塚田神社(早馬大明神)

勧請の年月は明らかではないが、所蔵の棟札に天正11年(1583)大壇藤原忠広……大願主鎌田丹後守、云々とあり、飫肥城主島津忠広が、伊東義祐(三位入道)と戦いを繰り返していたころ、島津の支将が再興したものとみられる。

また旧称を早馬大明神といい、地区古老の話によると、当社境内を万山の嶺と称していた。島津の支将、樺山安芸守が榎原村字大窪の男鈴山(標高783㍍)に鎮座する鈴嶽神社に参籠祈願し、名馬「早馬」に乗って塚田村に至る途中病死したので、塚田神社境外に葬った。

この故事にもとづき、ここを早馬崎といい、お宮も早馬大明神と称していた。島津氏が支配していた時代は、樺山安芸守の木像を本殿に安置し、太刀を奉納するなど、神社の造営、維持に当り、伊東氏になってからも神領として田五反五畝余を寄進して来た。

明治4年に塚田神社と名を改め、塚田(上塚田・下塚田)160戸の総氏神として崇敬されている。

出典:「神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト」に記載されている内容をそのまま転載しております。

歴史的背景

  • 天正11年(1583年)に島津の支将が再興
  • 明治4年に「塚田神社」に改称
  • 上塚田・下塚田160戸の総氏神

早馬大明神の由来

  • 旧称は「早馬大明神」
  • 樺山安芸守と名馬「早馬」の故事
  • 木像と太刀が奉納されていた

今後の展望

今回の調査では棟札の発見には至りませんでしたが、塚田神社が持つ多面的な価値を改めて認識することができました。

  • 歴史的価値:天正11年(1583年)から続く神社の由緒
  • 文化的価値:早馬大明神の故事と地域の歴史的アイデンティティ
  • 自然環境的価値:境内の飫肥杉(名木)と姫蛍の生息地

「塚田ふるさと応援隊」は、これらの地域資源を活用し、観光や教育といった地域振興活動の基盤として、今後も継続的な調査と情報発信を行ってまいります。